わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇 =(36) – ニッケイ新聞



 幸い小柳さんの鶏舎作りの手法を学びブラジル人耕地のユーカリ樹を買い受け伐採して家の柱に、更にボルクスワーゲン社工場より廃材の箱板をもらい受けたり、氏の手厚い厚意と支援で事はスムーズにはこんだのであった。謂いようのない感謝の毎日であった。しかし奥地で一農年働いて貰った6コントスだけが手持ち資金でありこれではどうにもならない。

 最小限の資材が揃ったので、仕方なく義弟実のフェイラ資金を一時資金繰りにして家族の受け入れ小屋建設に取りかかったのである。屋比久事務局長からの連絡によると、8月便サントス着が決定とのことだった。

 高鳴る胸をおさえながらの計画、然し唯一月曜日のフェイラ休日のみが手伝えるだけで後は自分一人。家族は乗船間際となっている嬉しい悲鳴の孤軍奮闘であった。少年時代に親父の手伝いで覚えた大工技でこれぐらいの小屋作りは充分に自信があった。寸暇をおしみ連日我武者羅に馬力をかける。その結果なんとか屋根は葺きあげることが出来た。

 そして土間に一段上げて寝台を板で作ったので、奥地の移民小屋に比べると、はるかに上出来のわが住家が半ば出来あがった。

 こうして故郷に残した8人の家族全員が移住手続き開始から7ヶ月で渡伯の途につき、1959年8月13日にあるぜんちな丸でサントスに到着した。1年7ヶ月振りで約束を果たすことが出来た。

 戦後移民の最盛期とあって、そのあるぜんちな丸第2航海には県人だけでも55家族・1単独323名の一大移民団であった。

 その名簿を見ると、1家族10名以上が何家族かあり、やはり大家族の移住がはっきりと見てとれる。移民当初ブラジルは農業を基幹産業としていたが、工業振興国として農業の資本主義化が急速に進展しつつあり、小規模農家が次々と崩壊に直面し、大農式農業者が生き残りに懸命な時代を迎えていた。

 しかし、ブラジル農業の一年生である自分たちにはその事情を知る由もなかった。幸いこのファゼンダジュダ日本人の集団地で規模は小さいが養鶏場と蔬菜園経営者が多数いたので、彼らに導かれて都市近郊野菜作りの第一歩をはじめたのであった。

 今では笑い話しにふされるが、農地の一部に廿日大根を播種、家族の来伯に合わせて、1日も早く農作業が出来るよう急ぎ足対策、そして到着翌日その間引作業を始めたが実らず、収穫なしの結末に頭をかく滑稽なこともしでかしていた。

 義弟実とサキ子は、フェイラ(露天朝市)を始めていて、入伯2ヵ年足らずで新婚一家がゼロ資金から生計を立てることが出来ている姿を目の当たりにして、ブラジル社会の良さをしみじみと感ずるのであった。特に裸移民のわれわれにとってこのフェイラ業こそは有り難い制度だけに一生懸命に働いたものであった。

 このフエイラは一週間単位に毎日地域を移動させて続くので、自家生産の農産物を自分で販売することができ近郊農家にとっては、自家生産の蔬菜を商品として即売できるよさがある。それに委託販売の必要性がないため中間搾取が免じられ、かなり有利な利益を生む。しかも小規模ながら、いわゆる生産即販売の仕組みによる現金収入で裸移民同然の自分たちにとって実に好都合といわざるを得ない。




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