長崎爆心地には商店街が… 復元地図づくり「墓標刻む」 – 朝日新聞




■ナガサキノート:この場所で

 蒸し暑い曇り空のもと迎えた、72回目の長崎原爆の日。原爆が落とされた地点を示す「原爆落下中心地碑」がある爆心地公園(長崎市松山町)では9日早朝、100人以上の若者が手を取り合って空に掲げた。核兵器廃絶を求める署名を国連に届ける「高校生平和大使」らによる「人間の鎖」だ。公園には日中も多くの人が訪れ、国籍や世代を超えて、原爆で犠牲になった人や土地に思いをはせた。

 碑の前で手を合わせる人、その場に立ち尽くす人、物思いにふける人……。お年寄りや家族連れ、外国人観光客など、様々な人が公園を訪れ、それぞれの方法で犠牲者を悼む。

 胸に抱く思いも様々だ。山梨から帰省中の女子大生は、「原爆の記憶が忘れられていくのは寂しいので、毎年来ています」。米国から旅行で来た20代の男性は、「ここに来なかったら絶対に後悔すると思った」と話し、碑の周りをゆっくり歩いたり、案内板を読んだりして長い時間を公園で過ごした。

 午前10時半ごろになると、さらに多くの人が集まってきて、碑の周りの空間を埋めた。一時にぎやかになった公園も、午前11時2分には静寂に包まれた。黙禱(もくとう)のサイレンと、セミの声だけが響いていた。

     ◇

 この公園を訪れる人の多くが目にする案内板。その一つには、被爆前の松山町を復元した地図が載る。土地の区画が描かれるだけでなく、家の一軒一軒に名前が書かれており、誰がどこに住んでいたかがわかる。これだけ多くの人々の生活の上に原爆が落とされた。

 復元に力を尽くしたのは、この町に住む内田伯(つかさ)さん(87)。爆心地から約130メートルに自宅があり、父や弟、妹を亡くした。焼け跡で見つけた骨は、形すらとどめていなかった。

 内田さんは40歳ごろになって、この町の復元地図の作製に取り組んだ。犠牲者の「墓標を刻む」との思いからだ。

 内田さんが携わった「長崎原爆戦災誌」などによると、当時の松山町は新興住宅地の商店街だった。大正の初めごろはまだ住む人も少なかったが、長崎市に編入されてから町づくりが本格化。道路の整備とともに食品や衣料、雑貨など様々な店が並ぶようになった。本通りの店舗数は実に約160軒。隣町に工場や学校ができると電車路線が整備され、通勤や通学も便利になった。いつしか交通の拠点となり、「第二の浜町」と呼ばれるほどの活況を呈していた。

 しかし戦争の影は、この商いの…

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