海外赴任半年で夫が浮気し離婚……中国でどん底から立ち上がった駐在妻が伝えたいこと – BUSINESS INSIDER JAPAN



中国の東北部、大連市。街の中心部には日本料理店が並び、日本商品を多く取り扱うデパート「マイカル」やローソンもある。日本企業の城下町と呼ばれ、在中日本人の間でも住みやすい都市として知られるが、この10月で大連生活20年目に入る溝上房枝(54)は、「マイカルは1999年にオープンしたんだけど、大連で最初の、レジでお金を払うスーパーだったの。あの頃は、がらがらの道路をロバが歩いていて、午後5時になると辺りは真っ暗だった」と振り返る。

溝上は元々、駐在員の夫についてきた専業主婦だった。その翌年、夫の浮気で離婚したが、帰国の道を選ばず、中国語を学び、苦労してキャリアをつくりあげてきた。

溝上さん

一時帰国を終え、大連に戻る溝上。「今回は次の仕事が決まっているから、ゆっくりできました」=8月下旬、関西空港

1998年10月、溝上は夫より1カ月遅れて大連に飛んだ。若い頃から中国語を勉強していたメーカー勤務の夫にとって、念願の中国駐在だったという。新生活への期待と不安を胸に空港に降り立つと、迎えに来た夫の傍らに、2人の若い中国人女性がいた。日本人相手のカラオケスナックに勤める2人を、夫は「こちらの生活で、いろいろとサポートしてもらっている人」と説明した。

優雅な生活を楽しむイメージが強い駐在妻だが、当時の大連は外国人女性が楽しめる場所は少なく、日本人女性もほとんどいなかった。

夫は毎日帰宅が遅い。言葉ができず、友人のいない溝上は、朝から外へ出て、1日中歩いて時間をつぶす日が続いた。

翌1999年2月。私用で2週間帰国する溝上を空港まで送ってくれた夫は、別れる直前に言った。

「離婚してほしい」

20歳で結婚、突然の裏切り

関西の実家に戻った後、改めて電話で話した夫は、「子どもができたんだ」と告げた。

相手は空港で自分を迎えに来たときに、一緒にいた女性のうちの1人だった。

「時々夫と外食するとき、必ずあの2人も一緒だった。その状況は普通じゃないと思ったけど、問いただす勇気もなかった」

大連の街並み

日系メーカーが多く立地する大連・開発区。夕方になると露店でにぎわう。

溝上と夫は高校時代に知り合い、20歳で結婚した。子どもはいなかった。

「夫は私には、2人で仲良く生きていこうと言っていたけど、その女性に『あなたの子どもがほしい』と言われて、心が動いたと説明された」

何かの間違いではないか。2週間後、大連の自宅に戻ったら、部屋の荷物が減っていた。夫は行った後だった。

相手を殺して、自分も死のうと思ったが友人に止められた。夫の会社の人たちも、「目を覚ませ」と説得していると聞いた。駐在員妻として中国に来たが、支えてくれる人もなく、1人で暮らす日々。疲れ果てて、あきらめた。

「これ以上もめても仕方がない」

同年5月、ゴールデンウイーク休暇中に日本に戻り、2人で離婚届を出した。

別れても、そばにいたい

平凡な主婦だった溝上に、36歳で突如訪れた人生の暗転。けれど溝上は日本に戻らず、大連外国語学院(現・大連外国語大学)に語学留学した。

「中国語ができなくて本当に大変だったから、せめて、話せるようになって、夫を見返したいと思った」と説明するが、それだけでない。

「こんな別れ方をしても、夫の近くにいたかった。未練たらたらだったのよ」

卒業式の溝上さん

大連外国語学院を40歳で卒業した。一番右が溝上。

20代の学生たちに混じって、十数年ぶりの学生生活。食事と睡眠、シャワー以外はひたすら勉強した。途中で、大卒の学位を取得できるコースに編入し、卒業したときには40歳になっていた。

離婚にあたり、夫からは慰謝料として手元にあった預貯金と、その後2年間、夫が得た給料の半分を受け取る約束をしていたが、経済的にも先のことを考えないといけない時期だった。

その頃、大連で働く女性たちと食事をする機会があった。

「せっかくそこまで勉強したなら、こちらで頑張ってみたら」

「先輩」たちに背中を押され、2003年8月、オープンしたばかりの五つ星ホテルに就職した。ホテルの客の7割は日本人だったが、日本人スタッフはゼロだった。溝上はそこで、営業を担当することになった。

だが、溝上はその仕事を1年半で辞めた。

「中国人は個人で付き合うととてもいい人たちなのに、仕事では全然違った。事前に打ち合わせしたのに、後から『聞いてない』と言われたりして、中国人を信頼できなくなった。ストレスをためている日本人宿泊客に八つ当たりされることも多くて、すっかり中国を嫌いになってしまった」

2005年3月。帰国して、日本で職探しを始めた溝上に中国時代の知り合い経由で舞い込んだ話は、またしても中国の仕事だった。

今度は中国企業の現地採用ではなく、日本企業の駐在員としての赴任。待遇も良かったから受けることにした。しかしそこも長く続かなかった。既婚者のはずの日本人社長が、女性を家に泊め、会社にも連れて来る。離婚の傷が癒えていない溝上には、耐えられなかった。

その会社を辞めると、今度は関西の商社の大連拠点で営業をしないかと誘いがかかった。社内に知人がいたことや、上場企業という安心感もあり、現地採用社員として入社。原料調達、工程管理、売り上げ回収と未経験の仕事ばかりだったが、少しずつ仕事を覚え、ようやく自分の居場所が確立できたと感じた。

社員100人の半分が一斉に退職願

この商社には2015年秋まで9年勤めた。定年まで働くつもりだったが、契約更新1カ月前になって、契約を終了すると通知された。

円安や人件費の上昇で、大連に拠点を置く日本企業の多くが、数年前から拠点縮小に動いていた。溝上の会社も、例外ではなかった。駐在員として中国に赴任している社員は帰国すればいいが、中国採用従業員は、国籍を問わずリストラの対象になった。

52歳にして職を失った。就労ビザの有効期限が切れれば、中国にいることすらできなくなる。キャリアのほぼ全てを大連で築き、友達も多い彼女にとって、もはや大連を離れる選択肢はなかった。一度は嫌いになった中国人も、長く働くにつれ、再び信頼できるようになった。ビザが切れる直前、転職エージェントから日系企業の総経理補佐のポストを紹介され、慌ただしく2016年1月に転職した。

ここで、これまでの日系企業では経験したことのなかった修羅場に遭遇する。

溝上が入社して間もない2月、製造部門の中国人トップが退職した。その数日後、100人いた社員のうち50人が溝上の席にやってきて、退職願を突き付けたのだ。先に辞めた幹部が、転職先に連れて行くために、水面下で動いていたという。

大連の街並み

大連は製造業、IT企業が集積する経済都市になったが、今もどこかのどかさが残る。

「日系企業とは言っても、社長が日本人ってだけで、本社も中国の別の場所にあった。事業を急拡大して、大連に工場を建てたけど、管理が全く浸透してなくてめちゃくちゃだった。工場従業員は制服を着ていないどころか、作業しながらものを食べている。誰が辞めたのかも人事が把握できていない。そして日本人は私だけ」

溝上は総経理補佐という立場だが、総経理はその場におらず、電話で相談しても具体的な指示は来ない。似たようなトラブルを経験した友人らに相談し、弁護士を雇い、操業がストップしないよう臨時工を20人手配した。

それからは連日連夜、退職願を出した従業員1人ずつと面談し、慰留するとともに状況を把握した。結局30人ほどは退職したが、会社に協力的な人材だけを残したことで、その後の運営はしやすくなった。中国人労働者に囲まれてもひるまず怒鳴り返し、次第に助けてくれる人も出てきた。

現地採用の不安定さを痛感

今年10月、再び職場を変えた。前職に大きな不満がなかったわけではない。だが50代半ばになり、これまでの経験を通じて、「外国人労働者」の不安定さを感じることが増えた。

自国の雇用を守るため、中国は年々、外国人に対する就業ビザの発給要件を厳しくしている。特にシニア層のビザを簡単に認めなくなった。溝上の周囲でも、ビザが更新されずに不本意ながら帰国する人が毎年いる。

それに加え、日本企業の現地採用スタッフは、事業環境が悪化したときに、最初にリストラの対象になる。

「私自身、2年前に9年勤めた会社に切られて、目の前が真っ暗になった。ああいう思いはもうしたくない」

悩む溝上のもとに、知り合いを通じて寄せられたのは、日本人学校の求人情報だった。具体的な業務内容は分からなかったが、担当者に連絡すると、事務長職だと判明した。

公教育の仕事であれば、ビザも認められやすい。日本組織の本格的な管理職を経験することで、いつか日本に戻ったときの役に立つかもしれない。

雇用する側にとっても、現地の事情を熟知し、できるだけ大連にとどまりたいと考える溝上はうってつけの人材だった。

「それでも死ぬ前に、会いたい」

溝上は5年ほど前から、現地で働く日本人女性の交流会を立ち上げ、世話役を務めている。この20年で自分が経験したこと、特につらい体験こそが、単身異国に移住してくる若い女性たちの「転ばぬ先の杖」になると思えるようになった。

結婚式

中国人の結婚式に招かれるなど、現地では大勢の友達ができた。前から2列目、右から5番目が溝上。

「今から思えばだけど、損になる経験は一つもなかった」

「ホテルで宿泊客に八つ当たりされたことも、商社で経験のない業務を任されたことも。やったことのない仕事に必死に取り組んできたから、転職するときに、新しい環境でも飛び込んでいける」

「大変だったから、周囲の支えに感謝できるようになった。留学時代は、体調が悪いときに、会話もできなかった韓国人がおかゆを持ってきてくれた。仕事を転々としてきたけど、多くは友人からの紹介だった。自分が経験したことと、周りにある全てに感謝している」

前の夫は、中国人女性と再婚した後、毎日電話を掛けてきた。20歳で結婚し、専業主婦が長かった溝上を捨てたことに、心苦しさがあったのだろう。溝上にとっても、彼からの電話が支えだった。

けれど、彼女が自分自身の世界を築き上げていくにつれて、電話の間隔は週に1度、月に1度と空いていった。最後に連絡したのは5年ほど前。近況を報告するメールを送ったが、返事はなかった。今は2人の子どもの父として、中国の別の都市に住んでいると聞いている。

まだ彼を思っているのかと問うと、即座に首を振った。

「さすがにそれはない」

「ただね、他人には理解できないかもしれないけど、死ぬ前に、会いたい」

(文中敬称略)

(文・写真、浦上早苗)




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